やる気は誰かにもらってもいいのかも

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どこか、思うようにやる気が出ないときというのがあるかもしれません。明日までにやらなきゃいけないのに気が進まないなあとか。


これ、今度までにやるって約束したのについつい後回しにしてしまったなあとか。自分の中でやらなきゃなあと感じるくらい重要なことであったとしても、ついついやる気が起きない。こんなことって誰しもあるのではないかなと感じたりします。


特に失敗を連想しやすいとか、やってみてもわからないとこが出てきそうとか。何かめんどくさを感じさせたり、できない自分と直面させられたりと、何だか億劫に感じることであったとしたら気が進まないのも致し方ないのかもしれません。


またすごく疲れている時も、なかなか気が進まないものですよね。やればやるほど、自分の体力が削られるような気がするかもしれません。体力が削られてしまったら、好きなことも楽しいこともする気力がなくなるかもとまで感じたとしたら、中々やる気が起きませんよね。


どこか、こういうやる気が起きない時ってやりたくない理由が多々あるように思うのです。


例えば僕であれば、こうやって文章を書くということに気が進まない自分もいるのです。誰にも読まれなかったらどうしようとか。こんなの書いてと無駄だよなあとか。何だか、書いた後に自分って孤独だなあって感じたくないので、書くのが億劫な気分になったりもする。



また他にも僕は事務作業とかパソコンとかあまり得意ではないのですが、どうしてもこういったことをやらなきゃならない時には、すごく胸が詰まるような気持ちになることが多いのです。


またわからないこと沢山あるだろうなぁとか。できない、無理だ、そんな気持ち沢山感じてどうしたらいいかわからなくなるだろうなあとか。やるって感じるだけでそんな気持ちやイメージを感じるだけで、そうなるとほんとに気が進まなくなるわけです。


実際問題、じゃあやらなくていいかというとそうではなくて、結局重い腰を上げてやるわけなのですが、常に大丈夫かなあ、できるかなあ、そんな思いを抱えてやり続けるわけなので、ちょっとしんどさを感じたりもするのですよね。



どこか、やる気が起きない時って、自分自信にあまり自信が持ててないとか、依存したり甘えたい自分を感じる分野とか。自分にダメ出しをしている分野であることが多いように感じます。



僕はやる気が起きない自分を感じた時、なんでできないんだろうなあという気持ちも感じますが、同時に、なんて自分はダメなんだろうなあと。やる気を出せない自分に対しても強くダメ出ししているんですよね。


それは何だか、誰かに甘えたり、頼ったりしてやることを禁止して、自分一人でなんで頑張れないんだろうと自分で自分を叱咤激励してるような感覚でもあるのです。



先程僕は、文章を書く時も億劫な気持ちを感じると書いたのですが、にも関わらず書けてる理由としては、自分の意識が高いとか、やる気を捻り出せてるとか。そういうわけではなく、誰かを頼れてる部分が多いように感じます。


僕の場合、こうやって文章を書く場合、自分の価値を人生の中で一番見てくれた人を思い出すようにしているのです。


そして心の中で、その人に力を貸してくださいと頼み込むようにしている。そうしてその人の存在に心の中で触れていくと、自分は絶対に大丈夫なような。絶対に自分の伝えたいことを伝えられるような、そんな自信や自分を肯定する感覚に満ちてくる。


でも僕が天邪鬼なのもあって、頼るだけなのは申し訳なくて、その人の幸せも祈りながら、その人の幸せに繋がることを願いながら書いているわけですが、なんだか心がとても安定するのです。


文章を書く前は、相変わらず不安なんですけどね。自分なんかが書いていいのだろうかとか。なんかこんな文章いつも書いてて申し訳ないなぁとか。迷惑じゃないかなあとか。感じるわけです。


でもちゃんとその人に心の中で頼ることができた時、そんな不安が一才消えるんですよね。ほんとに自分が大丈夫な気がしてくる。



どうしても、自分のやる気が起きない時って自分に原因があるように感じます。またそもそもで、やらなきゃならないことをできなかった時に自分が責任を取らなきゃいけないわけなので、そこで誰かを頼るという発想を中々持ちにくいものだと思います。


でもあなたの価値をなによりも見ていて、あなたの幸せをなによりも願っていて、あなたに本当に良い思いを沢山して欲しいと思う人は、あなたに少しでも傷ついてほしくないと、嫌な思いをして欲しくないと願い続けてるはずです。


僕もそう思ってもらってることに、その人に心の中で頼り続けて気付いたわけですが、それくらい人って誰かに思われていると思うのです。



もし中々そんな人を思い出せないとしたら、あなたに少しでも優しくしてくれた人、あなたのことを少しでも考えてくれた人を思い出して、頼ってみることでもいいと思うのです。


もしその人が、あなたに対して願いや祈りを少しでも持っていてくれたとしたら、あなたが頼ろうという意志を持つだけで、次第にあなたの心に安心や暖かさが流れてくるはずです。


人の思いって、あなたが受け取ろう、感じ取ろうという意志や意欲を持った瞬間に流れてくるものなんですよね。


どうか、少しでもあなたが人の力を借りて、より安全に安心しながら大事なことに取り組めますように。

優しい世界に浸る

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今後何をしたらいいかわからないときや、どこを目指せばいいのかわからない時など、自分の進む方向性を定めたい時、目標を立てたりするかもしれません。


立てた目標が、今の自分の頑張れる具合にマッチしてると、ワクワクしたりしますよね。でもあまりに今の自分ではできないような目標を立てたりすると、ワクワクというよりは、できなかったなあという思いばかり感じるかもしれません。


僕もどちらかと言うと目標を立てるのが下手で、目標を立てたはいいものの、上手くいかなかい自分を感じては、何でできないんだろうなあとか。自分って才能ないのかなあと、よくよく思ったりするものです。


なんというか、この時の気分って結構辛いものがあると思うんですよね。目標ってどこか自分との戦いっていう側面があるだけに、上手くいかない自分を感じると、自分って継続力がないのかなあとか。何だかやる気が足りないのかなあとか。


元々は、自分の未来の幸せや希望のために立てた目標なはずなのに、いつの間にか、目標そのものが自分を縛るような、辛いものに変わってしまうことがあります。


こんな時、自分が達成感を感じられるような、できたって思えるような目標を立てることができればいいと思うのです。でも自分ってダメだなあと感じる時に、目標を立てたい気分には中々なれないものだと思います。


もし、自分ってダメだなあって思いを強く感じているとしたら、休みの日にダラダラしてしまったり、やらなきゃならないことよりもやりたいことを優先してしまったとしたら、何でこんなことしちゃったんだろうって、自分を責める1日になってしまうかもしれません。


そうすると、折角の休みが待ち遠しいものだとは、中々感じられなくなってしまいますよね。


どこか、目標を立てることによって自分にとって大切なものを見失ってしまうことがあるかもしれません。



僕にはおばあちゃんが居るのですが、今施設に入居しています。毎月、おばあちゃんに会いに行ってるのですが、コロナの関係もあり、ベランダ越しに1.2分ほど話してその場を後にします。


不思議ですけどね、おばあちゃんと会うと自分の中の色々な荒んでいたような気分が、すっと楽になったりするのです。


それはどこかおばあちゃんが、僕と会えたことで喜んでくれてるというのもあると思います。でも同時に僕自身にとってもおばあちゃんは大切な存在であり、そんな大切な存在と会うことができたからこそ感じられた楽さでもあると思います。


たった1.2分なんですけどね。大切な存在と会う時間を作ることは、自分に何かできてないかとか、どこがダメなのかとか、そんな風に考える気にも全くならず、自然と自分も周りの人も優しい気持ちにさせてくれるのだと思います。


目標って立てること自体は、全く悪いものではないと思うんです。立てて実践を繰り返す中で、必ず自分自身の成長がありますから。


でも目標を立てる先に、大切な人をもっと大切にしたいとか。愛する人との関係性を良くしたいとか。もっと人との間で幸せを感じ、幸せを作り出せるようになりたいとか。


そんな誰かへの思いがあるのであれば、自分がダメだと思ってしまった時、自分のここができてないなあって思った時、大切な人の存在を思い出してみることも大切なのかもしれません。


それはどこか、自分は誰かから見てどれだけ大切な存在なのか。どれだけ価値があって愛する存在なのかを思い出すことでもあると思います。


自分のことを大切に思ってくれる存在と会えない時間があると、ついつい自分がその人にどれだけ大切に思われていたのか。どれだけ愛されていたのかを忘れてしまうものです。


僕もついつい、自分なんてダメなんじゃないかな〜という気持ちに入りがちになります。


僕にはおじいちゃんが居て、もう15年ほど前に亡くなりましたが、ずっと自分はあまり可愛がられてなかったのかなあとか。大切にされてはなかったのかなあとか。色々なことを思ってきました。


でも、孫のことをかわいいと思わななかったり、大切に思わないおじいちゃん、おばあちゃんって、恐らく居ないんじゃないかなって感じたりもします。


自分が誰かに大切にされていたのかを思い出す時、それは身内の人でなくてもいいと思うのです。僕も、思えば沢山の人に大切にしてもらったように思います。


そんなことを思い出した時、心の中がすごく暖かくなるし、優しい気持ちになります。


自分自身が愛されていたこと、大切にされていたことを感じたとき、僕の場合は自然と目標を立てられるような気がします。それは、自分を変えなければとか。こんなダメな自分を直さなきゃとか。


どこか苦しみと共にというよりは、愛されてる喜びを噛み締めながら、そして自分を大切にしてくれた人が自分の成長を変化を喜んでくれることを感じながら、目標を立てられる気がするのです。


もし、大切な人のために、あなたが自分への成長を課しているのだとしたら、

あなたを大切に思う人は、今のあなたでも丸ごとオーケーだと感じてくれてることを受け取ってみてください。


あなたを大切に思う人は、あなたが成長しなくても、会えたらめちゃめちゃ喜んでくれるはずです。でもきっと、あなたが成長したらもっと喜んでくれるかもしれません。


あなた自身のために。そして、あなたを大切に思う人のために。そんな視点を持って、良ければ目標を立てることにチャレンジして見てくださいね。

疲れてるのも悪くないのかも。

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何かを直向きに頑張り続けている時、当然自分の心をシャットダウンしたくなる時があるかもしれません。


もう誰とも関わりたくないなとか。誰とも話したくないなとか。もうこれ以上、頑張れない。一人にさせて欲しい。直向きに頑張り続けていたとしたら、こんなような気分になることもあるかもしれません。


頑張り続けるということでエネルギー切れを起こしてしまうこともあるんですよね。


心のそこでは、誰かと話したくないわけでもないし、一人になりたいわけでもない。だから、大切な人と過ごす時に、そんな一人になりたい自分が出てきてしまったとしたら、ものすごく自分が嫌で嫌で仕方がなくなるかもしれません。


僕自身も、もう何にも手につかないような、一人になりたいくらいの疲れを感じたことがありますが、そんな疲れを感じてる時って、どうしようもない気分も感じてると思うんですよね。


ほんとはこんなに疲れたくないし、何にも手につかないような自分になりたくないし、そもそもでこんな自分を見せるのは絶対に嫌だなって思う。でも、仕事で頑張ると何故だかこんな気持ちになってしまう。


僕自身も何でこんなに疲れるんだろうと。何でこんなに何にも手に付かなくなるんだろうと。考えたり悩んだりもします。というか、現在進行形で、何でこんなに疲れるんだろうな〜と感じたりすることもあります。


僕自身、ずっと疲れ果ててしまう自分がおかしいのではないかとか。問題があるのではないかという思いを抱えていました。やっぱり疲れ果てている時って何もする気が起きないので、誰からも認められないような気分になるのです。



どこか、疲れ果ててしまう自分が悩みというよりも、疲れ果ててしまう自分を見られたら、誰も受け入れてくれるわけがない。そんな部分に自分の悩みの種があるのかなと感じました。



今オリンピックがやっています。僕はスポーツが好きなので、この機会を生かしてあらゆるスポーツを見るようにしていますが、どの選手もほんとにほんとにすごいですよね。


選手の実際に努力されてるシーンを見たわけでなくとも、全力で頑張る選手の姿を見て、どれだけの努力をしてきて、どれだけの困難を乗り越えてきたのだろうかと、感じさせられるわけです。


きっとこの文章を読んでいただいてる方もそうだと思うのですが、例えオリンピックに出ている選手が負けてしまったとしても、「よく頑張ったよ」って、「お疲れ様」って画面越しに言ってあげたくなるんじゃないかなと思います。



どこか、どれだけ頑張っていても、目に見える結果を残さなかったり。何か自分って誰にも認められてないなとか、見てもらえてないなとか、そんな気分を感じると、自分なんて頑張ってないと思いやすいのかもしれません。


頑張ってないわけがなくてもです。


僕もずっと疲れ果ててしまう自分が出てきてしまう時に感じていたのは、何にもできてない自分が果たしてこんなに疲れていていいのだろうかというよりも気持ちだったように思います。


でも疲れ果ててもいいと思うんです。何にも手に付かなくなるくらい、何にもできなくなるくらい疲れてもいいと思います。


僕らって主観の生き物なので、当たり前ですが今ここで誰かの気持ちを感じられるわけではありません。だからどうしても、自分なんて頑張ってないって思いがちです。


でも、他の人は結構あなたの頑張りを見ているものです。ここすごいなあとか。よくやってるなあとか。助かっなあとか。でも、他の人がそう思ってるなんてなかなか感じられないですよね。


僕は疲れ果ててるくらい疲れるということは、それくらい誰かに対して価値を示せたということだと思うんです。必ず役に立ったことがあって、必ず頑張って必死になって疲れ果てる自分はならないと届けきれない何かがあって。


でも、その届けた相手は、あなたに対して示してもらった価値の分だけ価値を返すことはできなかったかもしれないけど、でも、あなたの頑張りで今日を生きれて、今日を頑張れて、今日を楽しく過ごせた方がいる。


それはあなたが、そのくらい疲れ果てるくらい頑張らなければ生み出せない価値だったんだと思うんです。


僕もそうだけど、疲れ果てたり、何も手に付かなくなる時に、すぐに自分ってよく頑張ったなあとか、よくやったなあとか思えるわけではありません。でも、あなたという価値のある存在が、疲れ果てている。そして何にも手につかない。


そこに意味があると見て見て欲しいのです。


自分で自分を見るとき、自分には価値がなくて、あれができなくて、ダメなとこばかりある。そんな風な目で自分を判断してしまいがちです。


でも他の人はあなたのことを、居てくれるだけで助かるし、存在してくれるだけで有り難くて、いつも沢山のものを貰ってて。そんなあなたが疲れ果てていると見えるわけです。


どうか、自分自身を大切にしてあげてみてください。あなたが疲れ果てているんです。価値のあるあなたが。そんな自分に少しでも優しい目を向けてあげてくださいね。




誰かを愛したいって思っても良い。




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感情というのは波のようなもので、大きく揺れ動く時もあれば、小さくさざなみのように揺れ動く時もあるかと思います。


頑張りたいなって感じる時もあれば、頑張りたくないなと感じる時もあるもので、人は感情の生き物である以上、常に同じような気持ちでは張れないものです。


僕自身、心理学を学ぶ中で、心の中に頑張れない自分がいるということを知った時に、強く絶望を感じたものです。頑張れない時があるということは、あまったれな自分が出ちゃう時があるってことか、、と。


常に迷惑をかけないような、誰も不快にさせないような自分でいたいという思いが強かったのもあり、弱音を吐いてしまい、頑張りきれない自分というのがすごく嫌だったんですよね。


昔から、全く弱さを誰にも見せないような自分になりたいという思いが強かったんです。今なら、どれだけ自分の弱さを見せたら嫌われると思ってたのか、というのがわかりますが、数年前に心理学を学ぶまでは、この誰かに迷惑をかけてしまう弱い自分が酷く嫌だったのです。


どこか、頑張り続けられた時、弱音も全く吐かずに頑張ることができた時、誰にも迷惑をかけないような気がするものです。誰にも迷惑をかけないなんてことは不可能でも、どこか絶対に自分は誰にも迷惑をかけないと感じたかったと思うんですよね。


それは人に嫌われたくないという思いもあったかと思います。でもどちらかと言うと、人に迷惑をかけてしまう自分がその場に居ていいような気が何だかしなかったのですよね。


人によって迷惑をかけたくないとか、嫌われたくないとか、そう感じる理由って様々だと思うのです。ただそういった理由って、自分のためというよりは、周りの人のことを思うことからきてる理由だったりもすると思うのです。


例えば、僕の場合は、自分がそこに居ても何も良いこと起きるわけがないとか。自分が居ても居なくても何も変わるわけがないとか。どこか、自分の存在自体を否定的に見ていたところがありました。


そんな見方を自分にしている時、人の輪に中々飛び込もうとしないとか。逆に感情を切って人の輪に積極的に飛び込むとか。何だか、自分自身が本当はどうしたいか、どんな自分でいたいか、という部分との繋がりが切れてしまうのですよね。


でも、自分の主体性と繋がりは切れていても、心の中ではどんよりした気持ち、自信のないような気持ちと共に、周りの人のことを思ったりしているものなんですよね。


自分がそこに行ったら、周りの空気を乱す気がするとか。周りの人たちは、僕が行くとあんま良い気はしないんじゃないかなとか。何だか自分の中に負のエネルギーがあって、そこが空気上を漂い、それが相手に呼吸を通して伝わってしまう。そんな感覚なのかと思います。


感じてることはネガテイブで、そんな気持ちを耳にした人はあまり良い気はしないだろうけど、でも、どこか人のことを思ってもいるんですよね。


どうしても、自分に価値がないと感じる時、自分がダメな存在だなって思う時、自分の存在を消そうとすることで誰かを愛そうとするものです。


それくらい人は人を愛したい生き物でもあると思うのですが、どこか周りの人も自分を愛したいと思ってるという視点に気付きづらいんですよね。



これは僕自身の経験でもありますが、高校生の頃、自分から空気のような存在になろうとしていたことがあったんですよね。それくらい自分自身の存在がダメダメで、こんな自分なんてという思いがめちゃめちゃ強かったからだと思います。


友人と一緒に居ても、自分の話をなかなかできないとか。部活の時もひっそりと後ろをついていくことがあったり。今思うとめっちゃ暗かったなあ〜(笑)と思うのですが、当時の僕はそれが周りの人のためになる気がしていたのです。


だからたま〜に、「え、居たの!?」とか笑いながら言われたりすることがあったわけですが、当時の僕はその言葉を「何でこんなこと言われなきゃならないのか」とちょっと怒りながら斜に構えて聞いていたりもしたのです。


でも今思えば、そういった言葉って「もっと話していいし、自分のアピールしていいのに」とか、「なんかお前のこと嫌なやつとかダメやつとか全く思ってないし、普通に受け入れてるよ」とか、そういう思いが言外にはあったと思うのです。


自分が自分自身を良くない存在だと思い、自分なんてダメなやつだと思う時、どこか自分が自分をどう見るか関係なく、自分を受け入れてくれてる目と繋がれないものだと思います。


でも、自分の存在は良くないものという見方を超えて、自分は良くない存在ではないと思えた時、自分のことを思い受け入れてくれた数々の目と繋がることができるように思います。



僕自身も改めて過去のことを思い出してみたとき、「居たの!?」とか「居ないかと思ってた」とか、言ってた存在が、僕に対して親身にアドバイスをしてくれてたんですよね。


サッカーの中で良いもの持ってるから、もっと自分を出していいとか。ここがちゃんとできるんだからとか。当時の僕は全くを持って(笑)受け入れることはできませんでしたが、周りの人は僕が思う何倍も自分を受け入れてくれてたように思います。



人って僕自身もそうでしたが、嫌われること以上に一番嫌なのは、自分のせいで誰かが嫌な思いをすることだと思うのですよね。


だからもし過去に誰かに嫌な思いをさせてしまった、迷惑をかけてしまったと、強く思う経験をしてしまったとしたら、そんな自分のことを最低な存在って扱ってしまうものだと思います。


でも、あなたがどれだけあなた自身を最低な存在だと。ダメな存在だと扱うことをしたとしても、周りの人たちは、あなたをそんな存在としては扱いたくはないものです。


それはあなたも自分が原因で、誰かに嫌な思いをさせたくないと思ってるように、周りの人もあなたに嫌な思いをさせたいとは全く思ってないからなんですよね。


分かり合えないことも、思いのすれ違いも、沢山あるのが人です。だからこそ、相手が自分を傷つけようとしたのでは!?とか、この人は人の気持ちを考えられないとか、そんな思いにとらわれてしまうこともあるかと思います。


でもそんなとき、自分がどれだけ人を愛そうと思ってる中に立ち返ってほしいのです。


もしあなたが自分を良くない存在とか、ダメな存在とか、居ても居なくても変わらない存在だと思ってるのなら、あなたは人一倍優しい心の持ち主で、とても大きな愛情深さを持っているのだと思います。


自分なんかより。自分みたいなのより。誰かが良い思いをして欲しい。報われてほしい。幸せで居てほしい。あなたが自分を責める思いには、そんな誰かへの優しさと思いやりが隠されているのだと思います。


こんなこと言ったら身も蓋もないかもしれませんが、あなたが自分を良い存在だと思えなくてもいいと思うのです。なぜなら周りの存在であなたを良い存在だと、優しい存在だと思ってくれてる人は必ず居ますから。


その思いが今届かなくても、必ずあなたの人生の中のどこかでその思いが届くはずです。


人はほんとに人を愛したいんです。人に優しくしたいんです。心の中では、ほんとに誰もがそう願っているものだと思います。


だからこそ、あなたが自分の存在が良いものだと思える日が必ず来ると思うのです。


ただただそう信じさせてください。これを読んだ方が少しでも自分の存在を良いものだと感じられますように。


寂しい時もあるよね。

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人と人との出会いには、様々な縁があると思います。喜び合うことをした日々も、笑い合うことをした日々も、どこか自分に対しての贈り物であったと感じることがあります。


それは誰かと会えなくなったという経験をしてからかもしれません。はたまた、誰かとの距離を自ら物理的に開けたから、贈り物という感じ方をするのかもしれません。


でも、贈り物と感じられるくらいですから、その人との関係性はどこか大切なものであったはずです。ただ蓋を開けてみたら分かるという感じなのかな。


毎日のように会って、何気ない日々を過ごしているときには、目の前の人が大切な存在であるということに気付けないこともあります。


僕自身も学生の頃にしても、カウンセリングの勉強をしてからも、関わりを持っている人たちが大切な存在であると、中々自覚できないことがありました。


大切でないわけではないけど、でも自分はまだ忙しいとか頑張ってるとか色々な理由を付けて、大切だと思う気持ちに蓋をし続けていたという方のが強いかな。


だからその人と何らかの理由で物理的に会えなくなるとか、疎遠になったりするとかすると、どうしようなく寂しい気持ちを感じたりもしていたものです。


それでね、寂しいからその人のことを大切に思ってるんだなって自覚できたらいいんです。でも何だか恥ずかしがり屋な僕は、そんな寂しさを感じる自分は弱い生き物のように感じ、どこかその寂しさを押し込めてきたように思います。


人は寂しさを感じるから人と繋がろうとするし、寂しさがあるから人と一緒にいる時間をかけがえのない時間と思える部分はあると思います。


寂しさって感じると、時に自分をめちゃめちゃ落ち込ませて、それこそ再起不能になりそうなほどに自分のエネルギーが欠落してしまいそうになることもあるから。どうしても、感じることそのものが弱いもののように捉えられがちなのかなと思ったりもします。


でも寂しいってちゃんと感じられないと、目の前の人が大切な人であったことにも自覚できないので、それはそれで余計に寂しい結果になってしまうのかなとも思うのです。


僕自身も寂しがり屋な方なのに、あまり寂しさを感じられないというパターンをもってました。寂しさってまあ不思議な感情だと思うんですよね。


なんだかめちゃめちゃ息が詰まるような気持ちとして感じることもあるし、居てもたってもいられなくなるような気持ちとして感じることもあります。


寂しさを感じる気配があると、逃げたくなるとか、何だかもう何も感じたくなくなるとか。自分自身の心との繋がりを切ろうとする、というのも寂しさの特徴の一つかなと感じたりもします。


それは言うなれば、それくらい大切な人を大切だと感じることが怖かったんだとも思うのです。もし大切な人を大切だと思ってしまったとしたら、その人が居なくなってしまうような気がする。そんな思いでもあったのかな。



僕自身はずっとこの、いつか大切な人が自分の元から居なくなるはず、という恐れをパターンとして持っていたので、大切だと本当は思ってる人との距離を物理的に取る、ということを無意識にしがちでもあったんですよね。


例えば僕は高校を中退しているわけですが、これもある意味この恐れのが具現化したと言ってもいいと思うのです。


その時は関わる人が大切な存在であることを自覚できてない自分がいるとは、感じられていませんでした


どちらかと言うと、自分がプロのサッカー選手になるためには、本型的に一人で練習する時間を取らなきゃいけないという気持ちから中退を決めたわけですが。


どこか、その裏には、自分一人で抱え込んできた悩みを誰にも受け入れてもらえるわけないし、だから自分は誰の助けも借りずに一人で頑張らなきゃいけない、という気持ちがあったように思うのです。


そこでは、大切な人に大切だと伝えたら、共に助け合いながら頑張り合えるという視点はなかったんですよね。


怖かったんだと思うんです。大切な人に大切だと伝えて。大切な人を大切だと感じて。もしその人が自分の元から居なくなってしまったとしたら。そこではどれだけの寂しさと悲しみを感じてしまうことになるのだろうかと。


でも、実際に僕は心の中で大切だと思う存在を自らの手で失う道を選んだわけです。


ただもっと一緒に居られればよかったなぁとか。また会いたいなあとか。今頃何やってるのかなあとか。時折思うんですね。寂しくないわけではない。むしろ、めちゃめちゃ寂しいわけです。



どこか、人って大切な人を大切だと思うあまり、その大切だという気持ちすら感じないようにするとこがあるのだと思います。それはどこかで自分にとってその人がかけがえのない存在であり、その人のどこかに助けられ、救われたと知っているから。


そして、ずっと弱いものと思い続けてきた寂しさという感情は形を変え、表現を変え、自分の中の大切に思う気持ちを引き出そうとしてくる。


消えて欲しい思いとは裏腹にやってくる寂しさとの格闘は、いたちごっこなのかもしれません。それはどこか、心の中に自分はあの人が大切な存在だって伝えたい。誰かを愛したいって素直に言いたい。そんな気持ちがあるよって、寂しさは教えようとしてくれるのかもしれません。


無くしたい感情だけど、きっとなくてはならない感情だとも思うのです。大好きな人と会えなければそれは寂しいし、大切な人に大切だって伝えられなければそれは当然寂しいものです。


でも寂しいって思えたなら大丈夫だとも思うのです。寂しいって思えたら大切な存在のことを思い出せます。その人の顔も表情も、その人から貰ったものも思い出すことができます。


その人に会いたいって気持ちも感じることはできるし、その人に会いたいって気持ちが溢れ出てくるなら、その人が自分にとって本当に大切な存在なんだって改めて感じることができます。


そしたらその人との出会いを、その人と過ごす日々をなんだか大切にしたくなるものです。


その人と会えなくなるのかということよりも、その人の笑顔がもっと見たくなる。その人の笑顔を見るためにもっと頑張りたくなる。


誰かを大切に思うということは、決して自分を弱らせることはなく、むしろ、誰かを愛したいという思いを通して、より大きな自分にさせてくれるように思います。


寂しさって弱い感情じゃないです。昔は僕もそう思ってだけど、誰かを大切に思える感情は愛があって、本来とっても暖かい感情だと思うのです。


人と人との出会いは、自分に人を愛し大切にする機会を与えてくれます。誰かが自分を愛し助けてくれて、その人に会えないこと、話すことができないことで寂しいと感じられたとしたら。それはもうその人が大切な存在だって感じられたってことです。


僕自身も、これから一つ一つ誰かを大切に思う気持ちに素直になりたいとも思ってます。大切な人が大切だって感じられるその時間は、なによりもかけがえのない時間ですから。


それだけで、何があっても前を向いて生きていけるような気がします。


これを読んだ方が、自分の寂しさを大切にできますように。






何回頑張れないって思ってもいいじゃん。

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日々、自分が大好きなことに情熱を傾けるということは、とっても幸せな時間であると感じます。


ほんとに、自分はこの仕事がやりたかったんだとか。自分はこんな風に生きたかったんだとか。


自分の中にある、誰かの役に立ちたい。何かを表現したい。何かを与えたい。そんな思いに素直になり、自分の情熱の導火線に常に火を付け続けることができたとしたら、そんな毎日は最高の毎日なのかもしれません。


でも、時に、自分の大好きなことだとしても、本当にやりたかったことでも、この先どうすればいいのかと道を見失ってしまうこともあります。


それは、目指す場所がなくなるような感じかもしれません。日々、自分が一生懸命頑張っていて、それが成果に結びつくとか。自分の成長に繋がってくれるとか。


この頑張りが未来の何かに繋がると感じられていればいいと思うのです。でもそれを感じられなくなった時、そこでは、今自分が崖に立っているのではないかという恐れに見舞われることもあるかもしれません。


僕自身も、自分の情熱を失ったような、この先どうしたらいいのかわからなくなる気持ちに見舞われたことがあります。


僕はサッカーをやっていたのですが、心持ちは常にプロになることを目指して頑張っていたわけです。


ただ、自分の気持ちと実力やパフォーマンスは比例することはなく、自分の追い求めるようなプレーをできることはほぼありませんでした。


そんな中でもプロになりたいという気持ちは切らさず頑張っていたわけですが、ある日、これはもう無理かもしれないと感じた時があったのです。


ある練習の日、攻撃と守備に分かれ1vs1の練習をした時があったのです。その時僕は、二つ下の子とやることになったのですが、まあもう見事に勝てなかったのですよね。


実力がという以前に、どこか気持ちの面から負けてるような感じがしたのです。そこで、もうプロになるのは無理かもしれないと強く感じたんですよね。


こんな風に、情熱を傾けていた対象に絶望を感じる時というのは、文字通り自分の中から情熱の火が消えてしまうような感じかもしれません。


もう、何やっても自分はダメなのかもしれない。自分が頑張ったって無理なのかもしれない。そんな風に、自分そのものを否定しながら、どこかやる気というものも、自分の中からいなくなってしまうかもしれません。


きっとそんな気持ちの時、どんな言葉も届き辛いのだと思います。自分自身が夢というものに対してどれだけの努力をしていたのか。どれだけ諦めそうになりながらも前を向いてたのか。


そんな自分を悔しさと共に感じそうになっても、心の中で感じた絶望や諦めに嘘をつけるわけではありません。


一番諦めや絶望を感じた自分に失望しているのは、他でもない自分なはずです。なんでもっと頑張れないんだ。なんで諦めずにもっと前を向こうとできないんだ。


何かを諦めてしまった時に、一番自分に言いたい言葉はこんな言葉ではないかと思います。


でも無理なんですよね。一度でも無理だと心の底から感じてしまった自分が許せないから。


夢と言うくらいですから。一度でもできないって無理だって自分自身が思ってしまったら、決して叶うことはないと、どこかで感じるほどの大きな夢なんじゃなかったのかなと思います。


夢を持つことも、夢を持ってそこに向かっていくことも本来めちゃめちゃすごいことだと思うのです。ある意味、夢を持った瞬間から、まだ夢を叶えられない自分との戦いが始まります。


自分には無理なのかもしれない、自分じゃできないのかもしれない。軽い気持ちではそう思えるかもしれないけど、でも心の底からそんな風に思ってしまったとしたら、なんか全てが終わってしまいそうな気がしませんか。


自分に夢がなかったら、どんな生き方をすればいいのだろうかとか。この夢が叶わなかったらどんな毎日を過ごそうとか。夢を目指してる時ってあんまり考えませんよね。夢が叶わないって思うとめちゃめちゃ怖くなるはずです。


だから、もう自分にはこの夢を叶えられないって感じた瞬間って、めちゃめちゃ怖いし、それこそ崖に今自分が立ってるような、そんな絶望を感じてもおかしくないのだと思います。


でも同時に言えるのは、それだけの絶望と怖さを背中に背負いながら、毎日必死に頑張り努力してきたということでもあると思います。


自分の生き甲斐そのものだった夢を諦めた時、自分を認めることなんて簡単にできないはずです。それは今まさに、自分の人生や生き方の全てを覆い尽くすような絶望と怖さを感じてるように。あなたの人生や生き方の全てを傾けるくらいの大きな夢だったはずです。


だから、自分の夢を諦めざるを得ないとき、本当は咽び泣くくらいに泣いていいと思うのです。


よく甲子園や高校サッカーで、泣いてる学生がTVに映されることがあると思います。特に高校サッカーだと、ロッカールームので声を出しながら泣いてる学生が映されたりします。


どれだけの情熱を込めて毎日頑張ってきたんでしょうね。きっと夢を叶えて、仲間と共に笑い合う瞬間を沢山描いてきたはずです。


自分の努力が実らないかもという不安が湧き出てきても、それを小脇に抱えて、日々を直向きに頑張ってきたはずです。


僕はそこに泣ける強さを感じるのです。何が何でも叶えたかった夢で、その夢のために自分の人生の全てを懸けてきた。大舞台での試合に負けた学生が流す涙には、その学生たちの情熱と強さを感じるものです。


もし、自分の夢を諦めなきゃならないと感じた時に、一人でそう感じたとしたら、自分の感情を涙を通して感じられるわけではないかもしれません。


なぜ自分は諦めてしまったのだろうか。どうして自分はもう頑張れないのだろうか。そんな気持ちの方を強く感じ、自分を責める思いばかりを感じるかもしれません。


でもそれはそれで大切な時間だと思うのです。夢を諦めるということも、夢を諦めた自分も惨めで情けないものかもしれないけど。でもあなたがあなたを責める思いの強さだけ、あなたはその夢に向けて頑張ってきたのだと思います。


きっとずるずると、何年も引きずってしまうことの方が多いかもしれません。何年経ったあとでも、夢を諦めた時のことを思い出し、ぐずぐずと後悔をしてしまうかもしれません。


でもそれはあなたの中で何年も自分を責めていたいほど、その夢に本気だったっていうことでもあります。


夢は叶わないかもしれません。叶わず悔しい思いをたくさんすることになるかもしれません。ただあなたが夢を叶えようと必死になり、情熱的に頑張ってきたことは事実です。そのあなたの頑張りは何よりも大切なものでありませんか。


夢を失ってすぐは、自分の頑張り続けられる強さに中々気づけないかもしれません。あなたがあなたを責めている時でも、あなたの心の中にはあなたの強さがあり続けてくれます。


どれだけ燃え尽きても、どれだけ何かを諦めたとしても。あなたは何度だって立ち上がり前を向いていくことができます。


一度は、何かを本気で頑張ってきたのですから。そのあなたの特色が変わるわけではありません。


何回泣いても、何百回自分を責めても、何回諦めた自分を呪っても。あなたの本質はずーっと変わらないものです。だからどうか、沢山沢山頑張った自分を受け止めてあげてくださいね。


あなたがどれだけ悔しい思いをしても、惨めな思いをしても、泣くような思いをしても、あなたはまた必ず立ち上がるはずですから。


どうかこれを読んだ方がご自分の頑張りを大切にできますように。強く願っています。

しんどいって言えたらいいのに。

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「僕、しんどいんです。」

そんなことを口にできたら、どれだけ楽になるだろうかと考えたことが幾度となくあります。


しんどくなるのは、何かを頑張ってたり、無理するくらい一生懸命になってたり、一人で抱え込んでたりと、理由は様々。でも様々な理由の中で共通しているのは、誰かや何かのために頑張りたかったという思い。


しんどくても頑張りたいし、無理をしたい。どこか、しんどさを背負っている時、自分は苦しいけど、誰かが救われていたり、誰かが楽になってたりすることは多いものです。


ただどこか、しんどさを自分が抱えている時、自分のしんどさが軽くなるとか、楽になる、ということからは遠かったりしてしまうものだと感じます。


僕自身、お仕事の中でも、人生の中でも、何か胸の中に何かがつっかえてて、それがなんだかわからないという経験をしたことがあります。


あまりに、自分を置き去りにして、人のために何かをしていると、重苦しさを感じても、それが何故感じるのか?感じてるものが一体何なのか?というのがわからなくなってしまうものです。


それがふとした時に、しんどいって言いたいなとか。何か弱音を吐きたいなとか。気持ちを言葉にしたい衝動として現れることもあったり。


または、いきなり頑張れなくなったり、動けなくなったりなど。行動に抑制がかかる、という形ででてくることもあるかと思います。


でも、そんな自分が出てきても、人って自分を追い込むことが多いんですよね。もっともっと頑張らなきゃと思うとか。こんなんで弱音吐いてちゃしょうがないと自分を鼓舞したりとか。


しんどさが言葉や行動に現れてきた時には、もうめちゃめちゃ頑張ってる後なのに。どこか、しんどさを感じることが、頑張ってない証拠だと感じるとこってあるのかなとも思います。


でも、そもそもの理由を辿れば、なぜしんどさを感じるに至ったのか?なぜ重苦しさを背負うようになったのか?ということでもあるかと思います。


しんどくなる前に、今やってることをやめても良かったと思うのです。無理ですって、どこかで言葉にしても良かったと思うのです。


でも、やめることなく続けたということは、しんどさを感じてでも続けようと思った理由がそこにはあるはずです。


僕が思うことですが、しんどくなるほど頑張る時ってやっぱり根本のとこには、何かや誰かのためという思いがあるような気がするのです。



これは僕自身の経験でもありますが、介護のお仕事をしている中で、どうしても抱え込んでしまう部分がありました。


介護のお仕事をし、カウンセリングをし、また勉強をしていく日々の中で、もう無理だな〜とか、やばいな〜とか、思う瞬間って何度かあったんですよね。


これ以上できないなって、しんどいなって、そんな感覚でもありましたが、じゃあそれを口にできるかというとそうではなかったわけです。


介護のお仕事などは、連携して、協力して、お客様と関わり介護させていただくわけですが、個人的な理由で、しんどいとか、無理ですとか、とてもじゃないけど口にできる気がしなかったものです。


そんな時に感じていたのが冒頭の部分で、しんどいって言えたらどれだけ楽になるだろうな〜という気持ちだったわけですが、どこか自分の負担が減ることで、他の人の負担が増えるとか。他の人がしんどさを抱えてしまうとか、そんなことを考えたりもしていたんですよね。


でも、いつだったかな。その日もいつものように、しんどさを感じながらも頑張ってた時、横にある方が通りかかった時に、すごく気持ちが楽になった経験をしたことがあったんです。


その方は、人のしんどさに気付き寄り添える方で、誰かがしんどい思いをしてるのに触れた時、腰を据えて動き続けられる方です。


その時にその方が、僕のしんどさに気付いたわけではないかもしれないです。でも、なんだかそこでは、その方の日々人に寄り添う姿勢を感じたんですよね。

そしたら、その方に自分のしんどさを預けられるような気がしたのです。


それはどこか、自分がしんどさを抱えてまで頑張りたかった理由を、その方の姿勢が尊重し肩代わりしてくれてるような感覚だったように思います。



人ってしんどさが楽になる時というのは、自分の根本の思いに触れてもらったから、というのが多いように感じます。


自分はめちゃめちゃしんどいけど、他の人にしんどくなって欲しくないとか。誰かに無理してほしくないとか。誰かが抱え込まず笑っていて欲しいとか。


人への想いや愛情が自分が頑張らなくても伝わるとか、届くとか思えた時、人は自分のしんどい荷物を下ろすことができ、楽になりたいという気持ちに素直になれるのかなと感じます。



本当は人は人に沢山頼っていいし、沢山甘えていいし、沢山自分の気持ちにも感情にも素直になって、楽になっていいと思うのです。


辛いなら辛いと、しんどいならしんどいと。それを言葉にした時、相手にめちゃめちゃ迷惑がかかる気がするかもしれないけど、でも、それを言葉にしてもらえた方ってやっぱり嬉しいのです。


そして何より、しんどいって素直に言えることで、そのしんどさに触れようとしてくれる誰かの優しさに触れられた時。しんどくても誰かを大切にできてる気がしてくるものです。


しんどくてもいい。そして、しんどいときはしんどいって言っていい。僕自身、しんどいときは心の中だとしても口に出すことを大切にしてます。その方に教えてもらったことです。



今もし、心の中でしんどさや重苦しさを抱えている方がいたとしたら、それを心の中でもいいので、受け止めてくれそうな人に伝えてみてください。


それがもし身近な人であった時、あなたの何気ない行動や雰囲気から、あなたのしんどさを感じてくれることがあります。あなたを大切に思う人、あなたに寄り添いたいと思ってる人は、あなたのしんどさを感じたいと思ってるものです。


そして、あなたのしんどさが楽になることを。少しでもあなたの負担が減り、あなたの笑顔が増えることを願っているものです。


もし、そんな人の優しさに触れることができてあなたの心が楽になったとしたら、自分がなぜしんどくなってまで頑張っていたのかに気付くことができるかもしれません。


そしてそうなったら、益々その人に頼りたくなったり、心を預けたくなるでしょうし、救われた分だけ、その人や他の人に優しさを与えたい気持ちにもなるかもしれませんね。


あなたがしんどさの奥にある、優しさに気づいて触れることができますように。