寂しい時もあるよね。

f:id:yuumamd:20210716222339j:plain



人と人との出会いには、様々な縁があると思います。喜び合うことをした日々も、笑い合うことをした日々も、どこか自分に対しての贈り物であったと感じることがあります。


それは誰かと会えなくなったという経験をしてからかもしれません。はたまた、誰かとの距離を自ら物理的に開けたから、贈り物という感じ方をするのかもしれません。


でも、贈り物と感じられるくらいですから、その人との関係性はどこか大切なものであったはずです。ただ蓋を開けてみたら分かるという感じなのかな。


毎日のように会って、何気ない日々を過ごしているときには、目の前の人が大切な存在であるということに気付けないこともあります。


僕自身も学生の頃にしても、カウンセリングの勉強をしてからも、関わりを持っている人たちが大切な存在であると、中々自覚できないことがありました。


大切でないわけではないけど、でも自分はまだ忙しいとか頑張ってるとか色々な理由を付けて、大切だと思う気持ちに蓋をし続けていたという方のが強いかな。


だからその人と何らかの理由で物理的に会えなくなるとか、疎遠になったりするとかすると、どうしようなく寂しい気持ちを感じたりもしていたものです。


それでね、寂しいからその人のことを大切に思ってるんだなって自覚できたらいいんです。でも何だか恥ずかしがり屋な僕は、そんな寂しさを感じる自分は弱い生き物のように感じ、どこかその寂しさを押し込めてきたように思います。


人は寂しさを感じるから人と繋がろうとするし、寂しさがあるから人と一緒にいる時間をかけがえのない時間と思える部分はあると思います。


寂しさって感じると、時に自分をめちゃめちゃ落ち込ませて、それこそ再起不能になりそうなほどに自分のエネルギーが欠落してしまいそうになることもあるから。どうしても、感じることそのものが弱いもののように捉えられがちなのかなと思ったりもします。


でも寂しいってちゃんと感じられないと、目の前の人が大切な人であったことにも自覚できないので、それはそれで余計に寂しい結果になってしまうのかなとも思うのです。


僕自身も寂しがり屋な方なのに、あまり寂しさを感じられないというパターンをもってました。寂しさってまあ不思議な感情だと思うんですよね。


なんだかめちゃめちゃ息が詰まるような気持ちとして感じることもあるし、居てもたってもいられなくなるような気持ちとして感じることもあります。


寂しさを感じる気配があると、逃げたくなるとか、何だかもう何も感じたくなくなるとか。自分自身の心との繋がりを切ろうとする、というのも寂しさの特徴の一つかなと感じたりもします。


それは言うなれば、それくらい大切な人を大切だと感じることが怖かったんだとも思うのです。もし大切な人を大切だと思ってしまったとしたら、その人が居なくなってしまうような気がする。そんな思いでもあったのかな。



僕自身はずっとこの、いつか大切な人が自分の元から居なくなるはず、という恐れをパターンとして持っていたので、大切だと本当は思ってる人との距離を物理的に取る、ということを無意識にしがちでもあったんですよね。


例えば僕は高校を中退しているわけですが、これもある意味この恐れのが具現化したと言ってもいいと思うのです。


その時は関わる人が大切な存在であることを自覚できてない自分がいるとは、感じられていませんでした


どちらかと言うと、自分がプロのサッカー選手になるためには、本型的に一人で練習する時間を取らなきゃいけないという気持ちから中退を決めたわけですが。


どこか、その裏には、自分一人で抱え込んできた悩みを誰にも受け入れてもらえるわけないし、だから自分は誰の助けも借りずに一人で頑張らなきゃいけない、という気持ちがあったように思うのです。


そこでは、大切な人に大切だと伝えたら、共に助け合いながら頑張り合えるという視点はなかったんですよね。


怖かったんだと思うんです。大切な人に大切だと伝えて。大切な人を大切だと感じて。もしその人が自分の元から居なくなってしまったとしたら。そこではどれだけの寂しさと悲しみを感じてしまうことになるのだろうかと。


でも、実際に僕は心の中で大切だと思う存在を自らの手で失う道を選んだわけです。


ただもっと一緒に居られればよかったなぁとか。また会いたいなあとか。今頃何やってるのかなあとか。時折思うんですね。寂しくないわけではない。むしろ、めちゃめちゃ寂しいわけです。



どこか、人って大切な人を大切だと思うあまり、その大切だという気持ちすら感じないようにするとこがあるのだと思います。それはどこかで自分にとってその人がかけがえのない存在であり、その人のどこかに助けられ、救われたと知っているから。


そして、ずっと弱いものと思い続けてきた寂しさという感情は形を変え、表現を変え、自分の中の大切に思う気持ちを引き出そうとしてくる。


消えて欲しい思いとは裏腹にやってくる寂しさとの格闘は、いたちごっこなのかもしれません。それはどこか、心の中に自分はあの人が大切な存在だって伝えたい。誰かを愛したいって素直に言いたい。そんな気持ちがあるよって、寂しさは教えようとしてくれるのかもしれません。


無くしたい感情だけど、きっとなくてはならない感情だとも思うのです。大好きな人と会えなければそれは寂しいし、大切な人に大切だって伝えられなければそれは当然寂しいものです。


でも寂しいって思えたなら大丈夫だとも思うのです。寂しいって思えたら大切な存在のことを思い出せます。その人の顔も表情も、その人から貰ったものも思い出すことができます。


その人に会いたいって気持ちも感じることはできるし、その人に会いたいって気持ちが溢れ出てくるなら、その人が自分にとって本当に大切な存在なんだって改めて感じることができます。


そしたらその人との出会いを、その人と過ごす日々をなんだか大切にしたくなるものです。


その人と会えなくなるのかということよりも、その人の笑顔がもっと見たくなる。その人の笑顔を見るためにもっと頑張りたくなる。


誰かを大切に思うということは、決して自分を弱らせることはなく、むしろ、誰かを愛したいという思いを通して、より大きな自分にさせてくれるように思います。


寂しさって弱い感情じゃないです。昔は僕もそう思ってだけど、誰かを大切に思える感情は愛があって、本来とっても暖かい感情だと思うのです。


人と人との出会いは、自分に人を愛し大切にする機会を与えてくれます。誰かが自分を愛し助けてくれて、その人に会えないこと、話すことができないことで寂しいと感じられたとしたら。それはもうその人が大切な存在だって感じられたってことです。


僕自身も、これから一つ一つ誰かを大切に思う気持ちに素直になりたいとも思ってます。大切な人が大切だって感じられるその時間は、なによりもかけがえのない時間ですから。


それだけで、何があっても前を向いて生きていけるような気がします。


これを読んだ方が、自分の寂しさを大切にできますように。