良く怒る人は怖いものだけど、あなたの周りの人はあなたに愛を向けている。

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誰しも怒られる経験はするものですよね。怒られた時、気持ちが尾を引かなければ良いのですが、時には尾を引いてしまうことがあります。


自分のここがダメだったのかなあと何日も悩んでしまったり。怒られた時の光景が事あるごとに思い浮かんできて、その度に自分を責めてしまう。誰かに怒られた時も、怒られたことを思い出してる時も、基本的には良い気持ちはしませんよね。


そうして怒られるたびに、怒ってくる人のことがあまり好きでなくなるとか、怖くなってしまうとか。そういう体験をされた方もいらっしゃるかもしれません。


という僕も、昔から怒る人がかなり苦手な方でした。父がよく怒る人だった影響もあるかと思います。どうも怒られた時、すごく自分が役立たずであるような気持ちを感じたりするんですよね。


僕の場合は、怒られた時に、この役立たず感を感じることが多かったように思います。自分がこれさえできてればこの人を怒らせなかったのにとか。自分がもっと頑張ってれば、この人は怒らなかったんじゃないかなとか。


怒られるたびに、自分が至らなく、役立たずだから怒られてしまうと感じていたものです。


実際にこの役立たず感を感じると、他にも色々な気持ちを感じるんですよね。もう自分は今後、これに一切触らない方が良いんじゃないかなとか。自分がやってしまうと上手くいかないから、何もやらない方がいいとか。


どこか、役立たずな自分を感じると同時に、それなら何もやらない方がいいのでは。じっとしていた方がいいのではという気持ちも感じていたものです。


そして、どうしても、そのような気持ちを抱えていると実際にミスが多くなってしまうのですよね。やらない方がいいのではと思う分、ちょっと遠慮がちになり、消極的な行動が増えるとか。


心はミスしてしまうのではという怖さでいっぱいで、普段だったらできる当たり前のこともついつい緊張からできなくなってしまうとか。


普通だったら忘れずにいられることも、普段だったら何気なくできることも、自分を役立たずだと思い、恐れや怖さと隣り合わせでいると、ついついできなくなってしまうものです。


そしてこのような時って、一人ですごく悩むことも多いんじゃないのかなと思うのです。僕自身の経験でもありますが、どこか自分を役立たずだと思う時、人との距離が生まれるんですよね。


僕は高校時代、不登校の経験をしているのですが、不登校であることに負い目があったんですよね。学校に行けるようになっても、不登校になった自分なんてという思いが抜けなかったものです。


友人が心配して声をかけてくれたり、明るく関わってくれたりしているのですが、心の中でどこか、こんな自分なんて申し訳ないなと感じてるとこがあったんですよね。


どこか、不登校になった自分を普通じゃないとか、おかしいとか思うことを通して、心配してくれる友人との距離をとってしまっていたものです。


きっと声をかけてくれたりした友人は全くそんなこと思ってなかったと思うのです。でも僕自身が自分をそうとしか思えなかったんですよね。


どれだけ友人が自分を心配してくれたり、声をかけてくれても、こんな自分はいつか嫌われるという思いでいっぱいなわけですから。そう思う分だけ、寂しさを感じる方に入っていってしまったものです。


誰も不登校である自分を愛さないに決まってるとか。本当の自分を見たら、嫌うに違いないしみんな心の中でそう思ってるだろうなとか。一人の時にそんな気持ちを感じ、一人で寂しい気持ちに暮れることも多かったものです。



誰かに怒られた時、激怒され、落ち込んでるときというのは、どこかこのような気持ちを感じることもあるんじゃないかなと思います。


たとえ気持ちが落ち込むことがあっても、他の人に優しくしてもらったり、心配してもらうことで気持ちを立て直せれば良いかもしれません。


でも、時にはどれだけの愛のシャワーが自分に降り注いでいたとしても、僕も感じていたように、全く自分のことわかってもらえてないと、意固地になってしまうこともあるかもしれません。


実際に役立たずだと感じている自分の気持ちまでは、わかってもらえてないのかもしれません。または、心配や優しい言葉だけでは明るい気持ちになれるほど、抱えている痛みが軽いわけではないのかもしれません。


でも僕の高校時代を例に挙げれば、きっとその時の僕って愛されにくい態度を取っていたと思うのですよね。


こんな自分がって思う分、自分から笑いかけることはきっとなかったでしょうし、どこか表情が怖がってるような感じだったかもしれません。そんな人に話しかけるって中々勇気がいることでもあると思うんですよね。


たとえ話しかけても反応が乏しいかもしれません。良かれと思って声をかけても、見返りがあることの方が少ないかもしれません。


でもそんな中でも話しかけてくれたり、心配してくれたということは、その人の中で僕の存在は、大丈夫かな?心配だなあ、、。と、少しでも大切に思う存在だったと思うのです。



自分の殻に閉じこもり、誰からも嫌われるに違いないという世界に入っていた当時の僕は、そんな友人の思いを全く受け取れませんでした。


今思い出せば、自分の元に沢山の愛が与えられていました。学校で一人でサッカーの動画を見て勉強してる僕を見て、優しく興味を持ってくれた友人。


学校に行けなくなった時に、何度も電話をかけてくれた友人も、何度も家にまで足を運んでくれた友人もいました。顧問の先生は不登校になった僕を見かねて、家まで来てくれたものです。


二度目の不登校になった僕に対して、担任の先生がクラスの全員に手紙を書くように呼びかけてもくれたものです。その中で、沢山の心配をしてもらい、優しい言葉かけをもらいました。


学校に来てねと言ってもそう簡単にいかないことかもしれないけど、でも待ってるよ、と。あまり話したことのないクラスメイトが、そんな優しく、尊重した言葉を書いたりしてくれたものです。



もしかするとこれをお読みの方の中にも、あなたを心配してくれた方がいるかもしれません。どれだけ暗い気持ちになってても、自分が自分を責めていても、声をかけてくれた優しい存在です。


僕もそうであったように、自分を酷く責め、自分の存在をあまり良いものとして扱ってないときというのは、人が自分をどれだけ思っていてくれてるのかが見えづらいものです。


でもあなたが自分をどう扱っているのか関係なく、人はあなたを心配し、あなたのことを考え、あなたに優しさを与えたいと思っているかもしれません。


たしかに中には、あなたのことをあまり良くない存在と思う人もいるかもしれません。あなたのことを理不尽に怒った人は、実際にあなたを大切に思わない人の可能性もあります。


でもその判断は、あなたに向けられている愛を受け取ってみようという意欲を持ってからでも良いのかもしれません。


僕自身も、僕に向けられていた周りの方からの愛を受け取るなかで、よく怒っている人が実は人を大切に思ってる人だったとか。人のために頑張ってる人だったとか。その人に対する見方が変わった経験をしたことがあります。


今あなたに向けられている愛を勇気を持って受け取る意欲を持ってみる。そこであなたが自分を役立たずとか、あまり良くない存在だと扱う思いを手放せた分、良く怒る人の中にある愛を見つけることができるかもしれません。


そしたら、よく怒る人に対する見方が変わって、あまり怖くなくなるとか。たとえまた怒られても必要以上に自分を責めなくなるとか。そういった気持ちに繋がるかもしれませんね。