応援されてるもんだ

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自分が何を目指しているのか、何を理想としているのか。日々色々なことに取り組む中で、見失ってしまうこともあるかと思います。

見失いたいわけではなくても、目標を心の中で確認できるほど余裕がないとか。理想としていることと、今の現実が程遠いとか。心の気持ちとして、未来の自分を感じられない。

僕自身、思うことですが、どこか毎日何があってもどんなことがあっても、自分が何を理想としてて、何を目指してるのかというのを、感じることができたらなと思ったりもします。

夢や理想を心の中で感じた時、何かワクワクする感じがしませんか。もしくは、情熱的な自分を感じたり、前に進みたくなるような自分を感じたり。

1日の中で、そんな情熱的な自分、ワクワクする自分を感じることができたとしたら、また明日も頑張ろうとか。今日一日ほんとに頑張ることができたとか。前向きでいて、かつ、今日の自分を承認できるような気もするのです。

これが毎日続けば理想ですけどね。でも情熱的でありたいと願う時ほど、また夢を何が何でも叶えたいと思う時ほど、夢や理想を感じられない自分と出会ったりするものです。


僕自身の経験で言えば、今日上手くいかなかったなあ〜と思う時、やっぱり、自分の夢とか理想を考えたりする気にはなれなかったりするものです。

当たり前かもしれませんが、今日一日上手くいかなかったのに、未来の自分が上手くいくとは、中々思えないものだと思います。

どこか、今日一日上手くいくことで、未来の自分も上手くいくと信じたいし、今日一日大丈夫だったと思えることで、自分は夢にしっかりと向かえてると、感じたくもあるような気がします。

でもそうすると、完璧に今日一日上手くいったと感じない限りは、夢を叶えたい自分を感じられなくなるわけです。

それって、夢や理想を目指す中では中々にしんどいことであると感じます。誰かが応援してくれる。励ましてくれる。支えてくれる。こんな状況だったらいいですが、一人で夢を目指しているとしたら、どこかで燃え尽きや諦めたくなる自分を感じてしまうかもしれません。


僕自身も燃え尽き感や、諦めたくなるような気持ちを感じるときというのは、一人で頑張ろうとしてるときが多かったような気がします。

もっともっとこうなりたいし、成長したい。でも今日上手くいかない部分があった。できないことがあった。なら、明日は、もっと工夫して違うやり方を試して。そんな風に、気持ちをどんどん前に進めようとする。

もちろん、それだけ必死で前向きなのは成し遂げたいことがあるからだけども、でも、不思議と頑張り続け、前を向こうとし続ける時、自分の夢や理想が叶うとか、成し遂げられるとか、そんなことをあまり考えないものなんですよね。

でももし、頑張ることで努力することで、自分の夢が叶っていい。理想を叶えていい。そんな風に思うことに許可を出せる感じがあるのなら、頑張らなくても夢を叶えてもいい、という見方を取り入れてくことも大切かもしれません。

夢とか理想って自分だけのもののような気がするかもしれませんが、あなたの夢や理想を叶えてあげたい。応援してあげたい。力になってあげたいと思う人は結構いるものです。

僕自身、一人で頑張ろうとする時、人の心の中に人を応援したい気持ちがあること、人を支え、人の夢を叶えてあげたい気持ちがあるという部分に中々触れることはできませんでした。

どれだけ応援されていても、支えられていても、自分のできない部分を見る時間が多かったりすると、人の応援してくれてる気持ちに着目することが難しくなったりするものです。

でも、できないって思うことも、無理って口に出すことも勇気がいることかもしれませんが、できないって口に出す勇気を持てたときに、人が応援してくれる気持ちに気づけるなら。

自分一人で頑張ることから、誰かの応援を受け取りながら前に進むことに繋がるかもしれません。

もし、毎日、自分の夢や理想を自然と感じることができる時間を取れたらいいと思いませんか。

自分一人で夢を叶えられないと感じる自分、まだまだ足りないなと感じる自分と向き合うことも、それを受け入れるのも大変なことです。

でも、あなたの夢を応援し、支え力になろうとしてくれる人は、どれだけあなたにできないことがあっても、あなたにダメダメなことがあっても、あなたを応援し力になり続けてくれるはずです。

もしその誰かの応援を受け取ることで、あなたが夢に向かいたくなる情熱的な自分を感じる時間を取ることが増えたとしたら。

きっと、夢に向けて何が必要なのか考える時間も積極的に取れるだろうし。自分に足りないとこを、ワクワクした気持ちや自信を感じながら、向き合い、修正していくことができるのではないかと感じます。

自分のできなさを超えて、誰かからの応援を受け取ってみようと考えてみる。よければお試しくださいね。

泥を被ってでも晴れた景色を見たい

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頑張ることって、すごいことだなって感じるのです。頑張る理由は様々でも、自分のためや誰かのために、直向きに何かに取り組み、集中して物事に当たるということ。


それが毎日当たり前のようにできることも勿論すごいけども、でも、そんな風に頑張るということをたった一日できただけでもめちゃめちゃすごいなって感じます。


でも、頑張ることがすごいことである一方で、自分の頑張りを認めることとなると、簡単にはいかなくなることも多いのかなと思います。


僕自身も、どこか頑張ることは当たり前のような感覚はあります。


それは、達成したい目標があって、そこに向かうためには頑張らないことには達成できないという理由があるとか。


他の人と比べた時に、自分はまだまだだと感じるし、自分にはまだ色々なものが足りないと思う分、もっと頑張らなきゃと思うとか。


目指したいとこ、達成したい何かというのがあって、そこから照らし合わせた時には頑張るのは当たり前に感じ、自分自身に、頑張ってるねと承認してあげることは、とてもじゃないけどできないような感覚です。


どこか頑張ることも、頑張ってる自分を認めないこともメリットがあったりするなとも思います。


でもメリットがある一方で、心の中では違う気持ちや感情も感じたりするものです。


頑張り続けていたとしても、頑張ることで自分の達成したいことが達成できるのか?と疑問や不安が湧き上がってくるとか。


まだまだって自分を追い込んだ時に、すごく疲れたり、燃え尽きるような感覚にも時々入ったりしてしまうとか。


頑張ることで何かを達成できるというメリットがある一方で、心はとても疲れたり、しんどいも思いをすることもあるかと思います。


でも、どれだけ疲れていても、しんどい思いをしていても、成し遂げたいことがある時。何が何でも叶えたい夢がある時。頑張り続けるという選択肢を緩めることも中々できないものです。


もし、頑張ることをやめてしまった時に、夢が叶う可能性が減ってしまったら?少しでも頑張る時間を減らすことで、周りの人に追いつけなくなってしまったら?


頑張ることを緩め、やめようと考えた途端に、そんな不安が頭の中でもたげてきたとしたら、とてもじゃないけど、頑張り続けるしかないと思うものかなと感じます。


それは何かを成し遂げたい、という熱意や情熱そのものなのかもしれません。


でも、どれだけ夢を叶えると、本気で日々を頑張っていても、毎日を全力で過ごそうと決意して必死になってても、頑張れなくなる時期って、不思議なものであるのかなと感じます。



それは僕自身の経験ですが、僕もそういう時期がありました。


学生の頃、プロサッカー選手になりたいと思い、本気で日々を生きようと思っていた時がありました。


でも、試合や練習になると、なぜだが力が突然抜けてくる。力が抜けて気持ちが完全に燃え尽きて全く走れなくなる。こういうことが、頻繁に起こったりもしました。


元々、心の悩みを抱えていて、常に自分の心と格闘していた時期でもあります。自分の心の悩みに日々格闘しながら、プロサッカー選手を目指そうと頑張っていたわけですが、自分の心はもうこれ以上頑張れない状態になっていたのですよね。


プロになりたいという気持ちもほんとで、もっともっと頑張らなきゃ、努力しなきゃ、もっともっと自分を強くしなきゃ。当時はそんな思いでいっぱいだったわけです。


でも目指そう、進もうと思い続ける自分とは裏腹に、やっぱり実際にサッカーをやるとなる時には、頑張れなくなることの方が多かったわけです。



僕自身がこういう経験をして思うのは、成し遂げたい何かがある時に頑張れなくなるというのは、悔しいことです。


でも、どこか、自分の頑張りを努力を大したことないと過小評価している部分もあって、自分ならもっと頑張れるって思ってしまう。


でも、もっと頑張らなきゃって思う時って、もう大抵めちゃめちゃ頑張ったあとなんですよね。


自分に足りないことがあるなとか、自分はまだまだだなとか。自分の理想や夢があればあるほどそう思うのは当然かもしれないけど、


でも逆に、自分の理想や夢がある方ほど、日々本気で全力で何かに取り組み、取り組んだ上で、自分のここはまだまだだと理想を通して比較して評価しているものです。


それは悪いことではなく、むしろそこまで向上心を持てることはすごいことです。

それだけ日々の何かに熱意や情熱を持ちながら頑張れるってことは、めちゃめちゃすごいことだと思うんです。ほんとに。


でもそれと同時に、自分って結構頑張ってるなあって思ってあげてもいいんじゃないかなとも思います。


夢があったら何が何でもそれを成し遂げたいじゃないですか。それこそ、日々の何かを犠牲にしても。苦しい日々の中頑張り続けなきゃならないとしても。


でも、だとしたら、そんな風に頑張る選択肢を選んだ自分のことを誇りに思ってくれたら嬉しいなとも思います。


日々頑張る選択肢を選ぶってすごいことなんです。自分を追い込めることも。自分はまだまだだと思って、益々頑張ろうとすることも、ほんとにめちゃめちゃすごいことなんです。


なかなか、自分の頑張りをすごいとは思えないかもだけど、でも、自分と同じくらい頑張ってる誰かを見た時に素直にすごいって思いませんか。


そしてそんな風に頑張ってる人が夢を叶えようとしてるなら、応援したいとか。何とか叶えてほしいなとか思いませんか。


少しでも、その応援したい気持ちを自分に差し向けてくれたら嬉しいなとも思います


頑張ってる人が報われないわけがないと感じます。必ず夢を叶えられる。例え、その道で叶わなくても、何か別の道で夢を叶えられる。


そう信じています。これは完全に僕自身の考え方ですけどね笑。でもそう思います。それくらい頑張ることも頑張り続けることもすごいことだから。


どうか、これを読んだ方が少しでも自分を認められる時間を取れますように。

ありがとうと伝えたい笑顔がある。



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時に、人の笑顔に救われることがあると思います。それは、まだまだ自分自身が未熟であったり、至らなさが目立つ時なのかもしれません。


今日一日、苦しい気持ちを抱えなかったことも、寝るまで不安が長引かなかったことも、誰かに向けてもらった笑顔のおかげ、ということも時にはあるかと思います。


自分自身にできないことがあっても。自分自身が無愛想でも心遣いが足りてなくても。自分の足りなさを超えて、これで大丈夫だって思わせてくれるのが人の笑顔なのかもしれません。


僕自身も記憶に残る笑顔がいくつかあります。


まだまだ、介護の仕事を始めて完全には慣れておらず、会話もなかなかおぼつかない時期。お客様との会話に自信が持てないことがありました。


自分が今伝えた言葉でお客様は喜んでくれてるのか?安心させることができてるのか?そんな不安を関わらせていただく中で日々感じていました。


お客様が少し不安そうな顔をされたり、ちょっと怪訝そうな顔をされたりした時に、自分の関わり方がダメだったんだなと自分を責めた時期でもあります。


そんな時、救われた笑顔がありました。きっと話しかけ方は下手くそだったんだと思います。自分の不安な気持ちに立ちすぎて、相手を思う気持ちを伝えられてなかったんだと思います。


でも、その方はどんな下手くそな関わり方をしても、常に笑って応えてくださいました。関わる時だけではなく、会うたびに笑顔を向けてくれる。


自分が今どれだけ人との関わり方が上手くないのかどうか。相手のことをちゃんと考えられてないのかどうか。そういった一切のことを超えて、差し向けてくれた笑顔でもあります。


 

他にもあります。お仕事の中で不慣れなこといっぱいあったと思うんです。自分が疲れている、忙しかったりする、色々な事情があるといえど、お客様の気持ちを配慮した上での関わりや対応ができなかったこともあります。


お客様にとっては、こちらが疲れているかどうかというのはこちらの都合であるわけで、時には怒られても仕方がないことでもあると感じています。


申し訳ないなと、もう少し余裕があれたらなと思う中、一度も怒らずに優しい笑顔で対応してくださる方がいました。それでいいよと。他のこと、他の人を優先してと。明るく、気さくに大きな笑顔で対応してくれるのです。


そこに甘えてしまったことも大分ありました。でもその笑顔に救われていたのも、安心していたのも事実です。


自分が疲れていたり、忙しかったりしても、改めて余裕を持てたのも、また優しく明るく関わることに立ち帰れたのは、こういった優しい笑顔を向けてもらったからでもあると感じます。


自分のどんなことよりも、人を優先し、人を立てることのできる方でした。きっと、心の中で色々な感情を感じられていたとも思うのです。


自分に負担が増えるかどうかを気にもせず、苦労を苦労にも見せない方です。与えたものに恩を感じさせるようことなく軽いユーモアで笑わせながら、いつの間にか笑顔でこちらの未熟さや至らなさまでも包み込んでくれる。


差し向けていただいた笑顔は、自分の中で大切に感じているものです。


冗談も茶化すことも、気さくに声をかけることも、相手をただ一心に思って笑顔で行った時、あんなに安心感を作るのだなと学ばせてもらいました。


ただただ感謝の思いでいっぱいです。

その方の笑顔が、色々な方の心にまた届き、そして色々の方の心に残りますように、という願いを込めて言葉を書かせていただきました。


願わくば、自分もこんな笑顔を誰かに向けることができますように。


良く怒る人は怖いものだけど、あなたの周りの人はあなたに愛を向けている。

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誰しも怒られる経験はするものですよね。怒られた時、気持ちが尾を引かなければ良いのですが、時には尾を引いてしまうことがあります。


自分のここがダメだったのかなあと何日も悩んでしまったり。怒られた時の光景が事あるごとに思い浮かんできて、その度に自分を責めてしまう。誰かに怒られた時も、怒られたことを思い出してる時も、基本的には良い気持ちはしませんよね。


そうして怒られるたびに、怒ってくる人のことがあまり好きでなくなるとか、怖くなってしまうとか。そういう体験をされた方もいらっしゃるかもしれません。


という僕も、昔から怒る人がかなり苦手な方でした。父がよく怒る人だった影響もあるかと思います。どうも怒られた時、すごく自分が役立たずであるような気持ちを感じたりするんですよね。


僕の場合は、怒られた時に、この役立たず感を感じることが多かったように思います。自分がこれさえできてればこの人を怒らせなかったのにとか。自分がもっと頑張ってれば、この人は怒らなかったんじゃないかなとか。


怒られるたびに、自分が至らなく、役立たずだから怒られてしまうと感じていたものです。


実際にこの役立たず感を感じると、他にも色々な気持ちを感じるんですよね。もう自分は今後、これに一切触らない方が良いんじゃないかなとか。自分がやってしまうと上手くいかないから、何もやらない方がいいとか。


どこか、役立たずな自分を感じると同時に、それなら何もやらない方がいいのでは。じっとしていた方がいいのではという気持ちも感じていたものです。


そして、どうしても、そのような気持ちを抱えていると実際にミスが多くなってしまうのですよね。やらない方がいいのではと思う分、ちょっと遠慮がちになり、消極的な行動が増えるとか。


心はミスしてしまうのではという怖さでいっぱいで、普段だったらできる当たり前のこともついつい緊張からできなくなってしまうとか。


普通だったら忘れずにいられることも、普段だったら何気なくできることも、自分を役立たずだと思い、恐れや怖さと隣り合わせでいると、ついついできなくなってしまうものです。


そしてこのような時って、一人ですごく悩むことも多いんじゃないのかなと思うのです。僕自身の経験でもありますが、どこか自分を役立たずだと思う時、人との距離が生まれるんですよね。


僕は高校時代、不登校の経験をしているのですが、不登校であることに負い目があったんですよね。学校に行けるようになっても、不登校になった自分なんてという思いが抜けなかったものです。


友人が心配して声をかけてくれたり、明るく関わってくれたりしているのですが、心の中でどこか、こんな自分なんて申し訳ないなと感じてるとこがあったんですよね。


どこか、不登校になった自分を普通じゃないとか、おかしいとか思うことを通して、心配してくれる友人との距離をとってしまっていたものです。


きっと声をかけてくれたりした友人は全くそんなこと思ってなかったと思うのです。でも僕自身が自分をそうとしか思えなかったんですよね。


どれだけ友人が自分を心配してくれたり、声をかけてくれても、こんな自分はいつか嫌われるという思いでいっぱいなわけですから。そう思う分だけ、寂しさを感じる方に入っていってしまったものです。


誰も不登校である自分を愛さないに決まってるとか。本当の自分を見たら、嫌うに違いないしみんな心の中でそう思ってるだろうなとか。一人の時にそんな気持ちを感じ、一人で寂しい気持ちに暮れることも多かったものです。



誰かに怒られた時、激怒され、落ち込んでるときというのは、どこかこのような気持ちを感じることもあるんじゃないかなと思います。


たとえ気持ちが落ち込むことがあっても、他の人に優しくしてもらったり、心配してもらうことで気持ちを立て直せれば良いかもしれません。


でも、時にはどれだけの愛のシャワーが自分に降り注いでいたとしても、僕も感じていたように、全く自分のことわかってもらえてないと、意固地になってしまうこともあるかもしれません。


実際に役立たずだと感じている自分の気持ちまでは、わかってもらえてないのかもしれません。または、心配や優しい言葉だけでは明るい気持ちになれるほど、抱えている痛みが軽いわけではないのかもしれません。


でも僕の高校時代を例に挙げれば、きっとその時の僕って愛されにくい態度を取っていたと思うのですよね。


こんな自分がって思う分、自分から笑いかけることはきっとなかったでしょうし、どこか表情が怖がってるような感じだったかもしれません。そんな人に話しかけるって中々勇気がいることでもあると思うんですよね。


たとえ話しかけても反応が乏しいかもしれません。良かれと思って声をかけても、見返りがあることの方が少ないかもしれません。


でもそんな中でも話しかけてくれたり、心配してくれたということは、その人の中で僕の存在は、大丈夫かな?心配だなあ、、。と、少しでも大切に思う存在だったと思うのです。



自分の殻に閉じこもり、誰からも嫌われるに違いないという世界に入っていた当時の僕は、そんな友人の思いを全く受け取れませんでした。


今思い出せば、自分の元に沢山の愛が与えられていました。学校で一人でサッカーの動画を見て勉強してる僕を見て、優しく興味を持ってくれた友人。


学校に行けなくなった時に、何度も電話をかけてくれた友人も、何度も家にまで足を運んでくれた友人もいました。顧問の先生は不登校になった僕を見かねて、家まで来てくれたものです。


二度目の不登校になった僕に対して、担任の先生がクラスの全員に手紙を書くように呼びかけてもくれたものです。その中で、沢山の心配をしてもらい、優しい言葉かけをもらいました。


学校に来てねと言ってもそう簡単にいかないことかもしれないけど、でも待ってるよ、と。あまり話したことのないクラスメイトが、そんな優しく、尊重した言葉を書いたりしてくれたものです。



もしかするとこれをお読みの方の中にも、あなたを心配してくれた方がいるかもしれません。どれだけ暗い気持ちになってても、自分が自分を責めていても、声をかけてくれた優しい存在です。


僕もそうであったように、自分を酷く責め、自分の存在をあまり良いものとして扱ってないときというのは、人が自分をどれだけ思っていてくれてるのかが見えづらいものです。


でもあなたが自分をどう扱っているのか関係なく、人はあなたを心配し、あなたのことを考え、あなたに優しさを与えたいと思っているかもしれません。


たしかに中には、あなたのことをあまり良くない存在と思う人もいるかもしれません。あなたのことを理不尽に怒った人は、実際にあなたを大切に思わない人の可能性もあります。


でもその判断は、あなたに向けられている愛を受け取ってみようという意欲を持ってからでも良いのかもしれません。


僕自身も、僕に向けられていた周りの方からの愛を受け取るなかで、よく怒っている人が実は人を大切に思ってる人だったとか。人のために頑張ってる人だったとか。その人に対する見方が変わった経験をしたことがあります。


今あなたに向けられている愛を勇気を持って受け取る意欲を持ってみる。そこであなたが自分を役立たずとか、あまり良くない存在だと扱う思いを手放せた分、良く怒る人の中にある愛を見つけることができるかもしれません。


そしたら、よく怒る人に対する見方が変わって、あまり怖くなくなるとか。たとえまた怒られても必要以上に自分を責めなくなるとか。そういった気持ちに繋がるかもしれませんね。

どれだけ想いを言葉にできないと悩んでも、あなたは誰かを愛している。

f:id:yuumamd:20210617202639j:plain長年、自分の思いを人に伝えられないということが悩みでした。自分が今どんなことを感じているのか。どんなことを思っているのか。人といるとわからなくなってしまう。


自分が消えてしまうようなそんな感覚ですね。人と話してるなかで言葉が出てこなくなる。頭が真っ白になる。何を言っていいか、何を話していいかわからなくなる。そんな体験をした時期がありました。


僕自身の経験でもありますが、人ってこういう時めちゃめちゃ悩むと思うんですよね。頭に過ぎる思いは、何で話せないんだろうとか。何で言葉が出てこないんだろうとか。自分を責めるような言葉ばかり。


言葉くらい話すのも、話をするくらい簡単ではないかとも感じたりもしていました。簡単なことのはずなのに自分はできない。そんな風にドツボにハマるような形で自分を責めることもありました。


どうしても自分を責めたくなるわけです。ほんとはもっと話したいし、仲良くなりたいから。でもそれができない。相手の方にも迷惑をかけて申し訳ないしで、自分を責める以外に選択肢がないような感じにもなってたんですよね。


でもどうにかして人と話はしたいわけです。一言でも何かを伝えたいわけです。


辛そうな人がいたら話を聞いてみるとか、辛いですよねと言葉にする勇気を持ってみたい。


この間はこんな言葉を伝えてくれてありがとうございました、とっても嬉しかったですと、感謝と嬉しかった思いも伝えたい。


あなたの近くにいると親近感を感じて、話してて楽しい。もっとあなたと話したいし、仲良くなりたいとも伝えたい。


でも伝えることができないわけです。

今日も伝えられなかったな。伝えようと思ってたのに、いざその人と話す機会があると頭が真っ白になってしまったなとか。一人になってやっと、自分の伝えたい気持ちを感じて、そして伝えられなかったと後悔するわけです。


一時期、こんなことがありました。

やっぱり、悔しいんですよね。伝えようと思ってても伝えられないと。だから感謝してることを紙に書いてみたり。言われて嬉しかった言葉を思い出して、何に心が動いたのかも紙に書いてみたり。


色々、自分の気持ちを可視化する練習をしたりもしたんですよね。そうするとちょっとは、人といる時でも嬉しい気持ちとか、感謝してる気持ちを伝えられたりするわけです。


でも、愛を伝える。相手と仲良くなりたいことを伝える。ここに関しては上手くいかなかったのですよね。


辛そうな人を見て、辛いですよねって共感したい。でも、自分なんかがって思えてくる。


自分が色々な人に励ましてもらい、力になってもらったから。誰かの話や相談を聞きたいって思う。でも、自分じゃ迷惑かなって、話を聞く勇気をなかなか持てない。


愛したい思いがどれだけあっても、それを行動に移すまでにすごく距離感があったのです。


そんな自分の癖を見抜いてくれた方もいて、良い思いは持ってるんだから言葉にしてみたらとか。言葉にしなくても、心の中では人のことを思ってるんだよねとか。色々な言葉を伝えてもらいました。


その当時は、愛情を行動に移せない自分を責めていたから、しっかりと受け取れなかったです。でも、今考えると、例え行動に移せなくても誰かを愛したいと、そう思ってるだけでもいいと感じるのです。


誰かを愛したいと思ってるのに愛せないとき、その愛が相手に伝わるとは思えないから、相手には伝わることはないという寂しさを感じるものです。


でも、誰かを愛したい思いって伝わらないわけがないと思うのです。ちょっとした柔らかい表情や眼差しも。ちょっとその人のことを目に留めてることが多いことも。人と一緒にいる時にあまり嫌な顔をしていないことも。


言葉という直接的な形での愛じゃないとしても、ちょっとした表情や態度で相手への愛情というのは伝わるものだと思うんです。


僕が思いを言葉にできない時、愛情を行動に移せないとき。それでも僕の価値を見てくれて、僕の愛を感じ取ってくれて、そんな僕でも仲良くしようとしてくれた方は沢山いました。


かなりやさぐれていたはずです。ほとんど自分の思いを言葉にできないから。でもきっと僕と話してくれた方や、関わろうとしてくれた方は、僕の中にある小さな愛を見ていてくれてたと思うのです。


それは僕が伝えられたかどうかとか、行動に移せたかどうかではなくて、僕の表情とか態度とか普段何をやってるかとか。そういった小さな部分からなんだろうと思うのです。


人に愛情や感謝を伝えることは、勇気のいることです。僕自身の経験からも痛いほど感じます。


でもどれだけあなたが今愛や感謝を伝えることができないとしても、そんなあなたと関わってくれる人がいるのであれば、その人にはあなたの愛や感謝が伝わっていると思うのです。


あなたの周りに、あなたを大切にしてくれる人がいるならば、それはあなたの愛がその人たちに伝わってるからでもあります。あなたは誰かに愛情を伝えられないときがあっても、あなたの存在が誰かを愛してるんですよ。


愛したいように愛せない自分をどうか責めないであげてください。


伝えたい思いを伝える勇気を持てないあなたを過小評価するのではなく、今日も伝えられなかったと自分を責めるあなたの愛したい思いを見てあげてください。


どれだけ勇気が出なくても、伝えられない日があっても大丈夫です。なかなか思いを言葉にできなかった僕が自信を持ってそう伝えたいです。


あなたはどんな日だって、誰かを愛し、誰かに愛されています。どうかそれを受け取れますように。

祈ることはできる

f:id:yuumamd:20210614202716j:plain祈りというと様々な場面を連想させます。

戦争に向かった旦那さんの無事を祈る奥様。

毎日のように教会に通い、大切な誰かの幸せを祈る人。


どこか僕自身の祈りのイメージとして、自分に何ができるかできないかを超えて、誰かの未来を思うこと、という風に感じていたりもします。


僕は介護のお仕事をしているのですが、お役に立てなかったなと感じることがあります。


もう少しこんな寄り添い方ができたら、目の前の方の心を楽にできるのかな、とか。

もっと上手く距離感を詰められる人なら、短い時間でもこの方を笑顔にできるのかな、とか。

あげればキリはないとは思います。


こんな風に自分の不足感を感じてる時、気持ち的には無力感や後悔を感じているものです。


自分はまだまだなのかもしれないとか、もっともっと色々なことができるようにならなきゃとか。強く悔しさや無力さが残るものです。


もっと、お客様の力になれる関わりができたらいいと思うのです。でも、どれだけ無力さを背負っても悔しさを感じても、できないことはできなかったりもするものです。


目標を立てたり、努力を重ねたり、関わり方に工夫を施しても、どこか、少しは残るんですよね。ああ、ここできてないなって部分が。そこが必ず、悔しさ、後悔にも繋がるものです。


自分一人ではどれだけ努力しても届けられないことがある。でも、誰かの幸せを祈った時、自分一人では届けられないものが届けられそうな気がする。


祈ることは、どこか、自分の思いを明日以降の自分や、また他の誰かに託すことだと感じたりもします。


自分には届けたいものを届けられないかもしれないし、与えたいものを与えられないかもしれない。でも、それを届けたい、与えたい、という思いは今自分は持っています。


なら、祈るということは、その思いが相手に届ききるまで諦めないこと、妥協しないことでもあるのかもしれません。


関わる方には、絶対に幸せを感じて欲しい。そのために色々なものを取りこぼしたくはない。もっともっと人の幸せに貢献できる自分であれたらとは願うし、幸せに貢献できる幅も広く、質も高い自分でいられたらと思います。


でも、自分がダメダメなのはわかってるから。自分がたとえ何もできなくても、何を与えられないとしても、でも幸せを祈ることで、目の前の人に何かが届くチャンスがあるなら。


誰かの幸せを世界中の幸せを祈り続けたいなとと感じたりします。


祈りを深めても、嫌だなと感じることも、イライラしたりすることも当然ありますけどね。でも、祈れた分だけ、自分の感情よりもその方のためとなるような選択をしたくなったりもします。


祈ってる本人が一番心地よさを感じられるのかな。不思議ですけどね。


何が何でも誰かに幸せになって欲しいとか、この人は絶対に幸せにならなきゃいけないとか。祈り続ける中で自然と感じることもあり、その思いと繋がれた時、やっぱり自分のパワーを感じたりもします。


だから、祈ることを通して、自分の日々の選択の質が変わるとか。夢を叶えたい理由や動機が変わるとか。日々与える物が変わることで自分の日々の感じ方も変わるとか。


自分自身に対しても色々なメリットがあるように感じます。よければお試しください。

挫折したぶんだけ労わってあげていい

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挫折という言葉。何かちょっぴり力強さを感じさせる言葉です。挫折から立ち上がったとか、挫折をバネに変えて夢を叶えたとか。挫折した幅が大きいだけ、何か大成できる気がする。根拠はないけどそんなことを感じたりもします。

 

挫折から何を学ぶのか。挫折からどう立ち上がるのか。それそれはいろいろなやり方があるかと思います。今回は挫折の乗り換え方ではなく、挫折という体験をどのような目で見ると心が晴れやかになるのか。僕自身の挫折の体験をもとに、書いてみたいかと思います。良ければお読みください。

 

 僕自身が挫折として感じた体験は、引きこもったことです。18の時に引きこもったのもあり、若くして引きこもったことが自分にとっての負い目でもありました。同学年の子は大学に入っている。でも自分の現状は引きこもりということで、何度も悩んだりしたものです。

 

引きこもる要因としていろいろな理由があるかと思いますが、端的に言えば人が怖くて引きこもったところがあります。人と目を合わせられない。顔が引きつってしまう。人がいると常に緊張する。いろいろな状態で怖さが体と心に表れました。

 

怖さを心の中で感じるたびに、これじゃあ大学に行くどころか、外にも出られないとよく自分のことを責めたものです。当時は現状が変わらないということもあったかと思いますが、引きこもった自分を肯定することは全くできませんでした。

 

当然だとは思いますが、自分が引きこもりであることを感じるたびに、将来への恐れと現状に対する焦りが出てきたものです。問題を先延ばしにできている安心感を感じることはあっても、ほっと一息つけるような安心感をあまり感じなかったものです。

 

どこか自分の現状を大きく変えなければならない状況にあるとき、自分にやさしい見方

を取り入れるとか、少しでも自分を大切にする視点を持ちにくいものだと思います。

 

僕のように引きこもりのような状況であると、状況を変えられない自分を感じるたびにこのまま変わらない自分をリアルにも感じたものです。どこか、引きこもった自分に負い目を感じながら、どんな人でも自分のことを否定するに違いないとも思っていたものです。

 

そんな自分が引きこもっている中や、引きこもりから脱出した後に、自分を肯定できた視点や考え方がありました。それをいくつかご紹介させていただきます。

 

まず一つ目は、昔から全く褒められなかった父に褒められたときです。引きこもり生活の中で、自分の心に原因があると感じ、内観する時間を多くとっていたのですが、「こんだけ同じことをできるなんてすごいな」と褒めてもらったことがあります。

 

元々、引きこもりの自分に負い目があり、両親にいつか出で行けとブチ切れられるのではないかと怯えてる自分もいました。そんな中で褒めてもらえたことで、なんだか味方になってもらえた気がしたのです。

 

それは、とことん自分のやり方でやっていいんだ、という安心感を感じられたものですう。その安心感が僕にとっては、引きこもりを抜け出すまでの諦めない強さに繋がったように思います。

 

似たような安心感でいえば、自分と同じ状況の人を探すというのがあると思います。

僕の場合、逆境に負けずに乗り越えた偉人の話を読むことで、若くして挫折を体験をした自分なら必ず将来自分は何かできるはず、と自分をふるいたたせていたものです。

 

そう思うたびに、襲い掛かってくる絶望や将来に対する恐れに負けずに、今自分がやるべきことに集中できたように思います。

 

どこか、逆境に見舞われてるとか、挫折を今まさに経験しているときというのは、自分を責めながら人との距離をとりがちになるかと思います。一人で乗り越えないといけない。でも乗り越え方もわからず、乗り越えられる自信も湧いてこない。そんな心境に僕自身もなったものです。

 

でも、必ずそんな状況でも、自分のことを見てくれている人もいると感じます。もしくは、自分と似たような体験をしているかたもいるものです。

 

引きこもった自分は誰からも否定されると感じていたときは、だれにも頼れず、心も安心することなく一人で乗り越えなければと思っていました。でも、今ではそれは誤解だったというのがわかります。必ずどこかに挫折した自分を受け入れてくれる人はいると感じます。

 

受け入れてくれる人の手を取り、その愛を受け取ることはとても勇気のいることです。

でもその愛を受け取れた時、自分の中から挫折や逆境を否定せずに、少しだけでも労える視点が持てるのではないかと感じます。

 

何かこれをお読みくださる方にとって、少しでも心安らぐ視点につながれば幸いです。